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最高裁昭和48年1月19日判決(シンガー・ソーイング・メシーン事件)の若干の検討

1 シンガー・ソーイング・メシーン事件判決は、労働者が退職金債権を放棄した意思表示を有効とした最高裁判例として参照さっれることの多い最高裁判例です。

 実際の判決文に基づいて、若干検討してみます。

2 前提となる事実関係について、『被上告会社に勤務していた上告人は、昭和41年8月29日被上告会社との間で雇傭契約を同月末日限り解約する旨約したが、被上告会社の就業規則の規定により算出すれば、上告人が退職時に受領しうるべき退職金は、408万2000円であつた、ところで、上告人は、右解約に際し、「上告人は被上告会社に対し、いかなる性質の請求権をも有しないことを確認する。」旨の記載のある書面に署名して被上告会社に差入れたが、当時上告人の被上告会社に対する請求権としては、右退職金債権以外には考えられなかつた、というのであり、原審は、右事実関係に基づき、上告人が退職に際し本件退職金債権を放棄する旨の意思表示をしたものである』と認定されています。

 そのうえで、退職金の支払いに労働基準法24条1項本文の全額払の原則が適用されることを前提に、『上告人が退職に際しみずから賃金に該当する本件退職金債権を放棄する旨の意思表示をした場合に、右全額払の原則が右意思表示の効力を否定する趣旨のものであるとまで解することはできない。もつとも、右全額払の原則の趣旨とするところなどに鑑みれば、右意思表示の効力を肯定するは、それが上告人の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならないものと解すべきである』『上告人は、退職前被上告会社の西日本における総責任者の地位にあつたものであり、しかも、被上告会社には、上告人が退職後直ちに被上告会社の一部門と競争関係にある他の会社に就職することが判明しており、さらに、被上告会社は、上告人の在職中における上告人およびその部下の旅費等経費の使用につき書面上つじつまの合わない点から幾多の疑惑をいだいていたので、右疑惑にかかる損害の一部を填補する趣旨で、被上告会社が上告人に対し原判示の書面に署名を求めたところ、これに応じて、上告人が右書面に署名した、というのであり、右認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし首肯しうるところ、右事実関係に表われた諸事情に照らすと、右意思表示が上告人の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していたものということができるから、右意思表示の効力は、これを肯定して差支えないというべきである。』と判示し、退職金債権を放棄する旨の意思表示を有効と判断しています。

 なお、賃金債権を合意により相殺する場合の労働者の意思表示については、最高裁平成2年11月26日判決(日新製鋼事件)が同様の判断をしています。

3 弁護士実務で最近参照されることの多い、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無について判示した最高裁平成28年2月19日判決(山梨県民信用組合事件)では、『就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については,当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく,当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度,労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様,当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして,当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも,判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁,最高裁昭和63年(オ)第4号平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁等照)。』と判示しています。

4 シンガー・ソーイング・メシーン事件よりも厳格な要件を要求しているようにも読めますが、既に発生し額が確定している退職金債権が対象となっており、労働者が十分理解している点に違いがあるにすぎないという読み方もできそうです。